2012年7月2日月曜日

俳諧(はいかい)

 主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句連句といった形式の総称である。

松尾芭蕉の登場により冒頭の発句の独立性が高まり、発句のみを鑑賞する事も多く行われるようになり、明治時代に成立した俳句の源流となる。時に作者個人の創作たる発句を完全に独立させた近代文芸の俳句と同一視される。専門的に俳諧に携わるひとを「俳諧師」と呼ぶ。 江戸期においては専業のいわゆる「業俳」が俳諧師と呼ばれていた。 本業があって趣味として俳諧を楽しむ人は「遊俳」と呼ばれ、遊俳は俳諧師とは呼ばれない。

「俳諧」の元の意味は「滑稽」「戯れ」といった意味がある

正風俳諧(しょうふうはいかい)とは、松尾芭蕉が大成した俳諧の概念をさすことばである。
もともとは、天文9年(1540年)の秋、荒木田守武俳諧式目の制定と同時に初めて名付けたことばである。しかし、俳諧という、自然と人生に基礎を置く民衆的な文学を、形式・内容共に純芸術と完成せしめたのは松尾芭蕉であり、芭蕉が主体たる蕉門俳諧は芭蕉自身諸国を行脚し、深く自然と人生に思いを秘め「正風」を弘めたことから、芭蕉の俳諧を指すことばとして用いられるようになり、蕉風俳諧とも書かれるようにもなった。
「正風俳諧は万葉集の心なり。されば貴となく賎となく味うべき道なり。」とは芭蕉不滅の名言である。

松尾芭蕉

伊賀国(現在の三重県伊賀市)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。松尾家は農業を生業としていたが、苗字を持つ家柄だった。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。
13歳の時に父が死去。兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためであろうか、若くして伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、2歳年上の良忠とともに北村季吟に師事して俳諧の道に入った。寛文2年(1662年)の年末に詠んだ句「春や来し 年や行けん 小晦日」が作成年次の判っている中では最も古いものである。寛文4年(1664年)には松江重頼撰『佐夜中山集』に初入集。しかし寛文6年(1666年)に良忠が歿するとともに仕官を退く。その後、寛文7年(1667年)に大和国今井町の今西正盛撰『耳無草』(『詞林金玉集』)に発句1入集。
寛文12年(1672年)、処女句集『貝おほひ』を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納。延宝3年(1675年)に江戸に下り、神田上水の工事に携わった後は延宝6年(1678年)に宗匠となり、職業的な俳諧師となった。延宝8年(1680年)に深川に草庵を結ぶ。門人の李下から芭蕉を贈られ、芭蕉の木を一株植え、大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉  芭蕉
天和2年(1682年)の天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐谷村藩山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれ流寓する。
しばしば旅に出て、『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などの紀行文を残した。元禄2年(1689年)、弟子の河合曾良を伴って『奥の細道』の旅に出、8月に大垣に到着。いったん故郷の伊賀上野へ帰ったが、翌元禄3年(1690年)、近江の弟子・膳所藩菅沼曲翠の勧めにしたがって、滋賀郡国分の幻住庵に4ヶ月滞在。元禄4年(1691年)には粟津の無名庵から京都・嵯峨野に入り落柿舎に滞在。弟子たちと『猿蓑』を編纂。この巻之六が『幻住庵記』である。のち江戸に帰った。
その最期も旅の途中であり、大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した(よく辞世の句と言われているが結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった。なお、「秋深き 隣は何を する人ぞ」は死の床に臥す直前に書いた句である)。享年51。生前の「(墓は)木曾殿の隣に」という遺言により、大津膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曾義仲の墓の隣に葬られた。
弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角服部嵐雪森川許六向井去来各務支考内藤丈草杉山杉風立花北枝志太野坡越智越人や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる河合曽良広瀬惟然服部土芳天野桃隣、それ以外の弟子として万乎野沢凡兆蘆野資俊などがいる。

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